筑後市のさぎっちょ

日本には古くからさぎっちょと呼ばれるお祭りがある。
これは、小正月に行われる火祭りだ。
さぎっちょでは、竹や木で組まれたやぐらにその年に使用した正月飾りを入れ、火を入れる。
すると、櫓から煙が上る。
煙に乗って歳神は天に帰っていく。
私達は、この祭りを通して、お正月に迎えた歳神を見送るのだ。
さぎっちょは地域によって呼び名が異なる。
さぎっちょの別名は、左義長、どんど焼き、鬼火、ほうけんぎょう、さいと焼き、おんべ焼きなど様々だ。
実はこのさぎっちょの歴史、正確には判明していない。
平安時代の宮中行事が起源だという説もあるが、中国の元宵節が起源だという説もある。
さぎっちょに関する文献や論文も極端に少ないことから、一般人がさぎっちょに関して正確な情報を手に入れるのは不可能だと思われる。

さぎっちょを行うと大量の灰が降り注ぐため、さぎっちょを禁止する町が増えてきている。
私達がさぎっちょの歴史を深く知る前に、さぎっちょは絶滅してしまいそうだ。

Saggicho is an traditional ceremony, on Jan. 15. It is a large scale bonfire.A tower is built with a wodd and bamboo, and New Year’s decorations are placed inside. As the fire is lit, the some rises hige into the sky, and the god returns to heaven.

This ceremony is to send the god home, who have visited us on the New Year’s holiday.There are several variationsfor it’s name. Depending on the region, sometimes it is called Saggicho, Sagicyo,Dondo-yaki, Onibi, Hohkengyo, Saito-yaki, or Onbe-yaki.

There are no clear background as to when and how it started. One theory is that it originated from the event held at an Imperial court in Heian era. Another is that it has an origin in a Chinese Lantern Festival. It will remain a mystery, yet history continues on.

But due to the large amount oh ash falling upon the residencial area, many cities are starting to prohibit the event itself. There is a great possibility that we may soon loose a such an event, before we truly understand it.

Japan has the old ceremony that is called Sagiccyo. It is the fire ceremony to be held on 15th of January. By the Sagiccyo, the people put New year’s decorations in the tower which was made with bamboo or wood and set fire. And smoke is rising from the tower.

Toshigami return to the sky on the smoke. We give a god that I met for New Year Holidays send off through this ceremony. The Sagiccyo varies in a name by an area. Other names of the Sagiccyo are Sagicyo, Dondoyaki, Onibi, Hougenkyo, Saitoyaki, Onbeyaki, and so on.

In fact, the history of the Sagiccyo does not become clear exactly. The opinion to be the Imperial Court event of the Heian era has the origin of the festival, but there is the opinion to be the Feast of Lanterns clause of China. Because there are extremely few documents and articles about this ceremony, I think that it is impossible that people get correct information about the Sagiccyo.

Because a large quantity of ash pours when this ceremony is held, towns prohibiting this it increase. The Sagiccyo seems to become extinct before we know the history of it deeply.

©KYism
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K.Takeshita

【ワークショップ】八女の白壁をモノクロフィルムで愉しむ会

八女でモノクロフィルムで写真を撮るワークショップを行います!
参加者の写真を1枚MITOTEで展示します!

【日時】
・2月22日(土) 13:00〜16:00
13:00~14:00
モノクロフィルム&フィルムカメラについて説明
14:00~16:00
モノクロフィルムで八女の町並みを撮影

・3月14日(土) 11:30~13:00
11:30~13:00
ランチを食べながらプリントした写真を発表し合う

※フィルムの現像・プリントにお時間がかかるため、必ず両日ご参加ください。
※雨天でも開催する予定です。

【ファシリテーター】
森音広夢
竹下和輝

【参加費】
¥4,000(税込み)
フイルム現像・プリント代は別途実費でお願いします。
現像はまとめてこちらが出しに行きます。

【参加人数】
先着5名

【場所】
cafe MITOTE(〒834-0031 福岡県八女市本町219ー2)

【撮影テーマ】
白黒で残してみたい八女の白壁の町並み

【作品展示について】
参加者の皆さんが撮った写真を1人1枚ずつMITOTEで展示いたします。展示する写真は3月14日に選んでいただきます。

【フィルム&カメラに関して】
・モノクロフィルムは当日こちらから「FUJIFILM 黒白ネガフィルム ネオパン ACROS 100 35mm 36枚」を一本お渡しします。
・撮影後のフイルム現像・プリント代はお手数をおかけしますが実費でお願いいたします。
フイルム現像・プリント代の価格に関してはカメラのキタムラのサイト(http://www.kitamura.jp/)をご参考にしてください。
・当日こちらから35mmフィルムカメラを一人一台貸し出します。
・35mmフィルムカメラをお持ちの方は、ぜひご持参ください。

【主催】
KYism

【お問合せ】
OFFICE POCO FUKU
kumamonkazuemon@gmail.com(代表:竹下)

無病息災のお祭りって古代の生命保険だよねって話

今年も福岡県筑後市の熊野神社で行われた鬼の修正会に参加してきた。
鬼の修正会とは約500年前に始まったとされる無病息災を願う祭りだ。
参加者は500kgの大松明を刈又と呼ばれる槍のような道具で持ち上げて、熊野神社の境内を三周回るのだ。
参加者は上半身裸のため大松明からこぼれ落ちる火の粉、というか火の玉を直に浴びなければならない。
実際の祭りの様子は過去の記事を読んでもらえるとわかると思う。また、祭りの起源や久留米の鬼夜との比較記事はこちらで読める。

無病息災のお祭りってその年の自分の健康や家族の無事を祈るわけである。
それって古代(鬼の修正会に関しては古代というには新しすぎるが)の生命保険だよねって思うのですよ。
いつの時代も家族が無事に過ごせるのは身近であり、最大の祈りだったのだろう。
だけど、生命保険と無病息災の違いって生命保険は負の方向にお金を払うわけです。

もし自分が死んだら。
もし自分が病気になったら。
もし自分が事故に遭ったら。

そういうマイナスなことにお金を払うのが生命保険。
ところが無病息災は正の方向へお金や労力を使うわけだ。

健康でいられますように。
無事で過ごせますように。
病気が治りますように。

それってすごく理にかなっているなあと思うのです。
そりゃあ自分が死んだ後に家族になにか遺せていたらというのは大事なことだが、なにも生きてる時から死ぬことに投資しなくてもいいと思うのですよ。

そんな生きてることに力を注ぐ鬼の修正会の参加者は、昨年に比べて大幅に減ってしまった。
地元の力不足もあるが、若者が参加しないそうだ。
先行き不安な現代だからこそ、祭りに参加することが大事だと思うのだが。
約500kgの大松明を掲げるなんて危険な祭りだが、時には正の方向に投資するのはいかがだろうか。

K.Takeshita

インフルエンサー「40いいね!」事件について

あれは僕が八女でまだバイトをしていた時の話。
ある日勤め先の代表がこんなことを言い出した。
「今度来る○○さん、ワークショップの料金は無料でいいから」
わざわざ代表が「無料でいい」というからにはさぞかし世話になった人に違いない。
僕は代表に「○○さんって誰なんすか?」と質問した。
すると代表は意気揚々とこう答えた。

「インフルエンサーたい!!」

インフルエンサー?
「インフルエンザ―じゃないとよ?」とオヤジギャグまで言われたが、大丈夫、拙者インフルエンサーであることはしかと受け止めている。
インフルエンサーとはそれすなわち影響を与える人のことである。
どうやら八女市というのはインフルエンサーにあの町この町を歩いてもらい、ワークショップも無料で体験してもらいそれをメディアで発信してもらって観光客を呼ぼうとたくらんでいたのだ。

そして約束の日、八女市に○○さんというインフルエンサーがやって来た。
○○さんとわざわざ伏せ字にしているのは気遣ってからのことではない。ほんとに僕はその人の名前を忘れてしまったのだ。
○○さんはオランダの女の人だった。美人だったと思う(よく覚えてないけど)。
僕の記憶に鮮明なのはインフルエンサーの容姿とかではなく、その仰々しさである。
カメラマンと通訳とアシスタントっぽい人。
カメラマンはSONYのα7の最新モデルに20万円くらいのジンバルをつけて撮影していた。
スタッフである僕らは完全に蚊帳の外で、とにかくワークショップをしている風の写真を撮るためにスタッフというノイズまで排除されて撮影をしていたのだ。
特に八女の伝統工芸にもワークショップにも興味のなさそうなインフルエンサー御一行はさっさと撮影を終えて撤収。僕らバイトはいつものバイト業務に戻った。
後日僕は上司とか代表に「あのインフルエンサーってどうなったんすか?」と訊いてみた。
すると、びっくり。
誰もあのインフルエンサーがどんなメディアを持っているのか知らないのだ。
県庁の人間から「インフルエンサーが行くから」と聞いていただけで、そのインフルエンサーがどんな影響力を持っているのか何も知らなかった。
それどころか、そのインフルエンサーにどんなことを発信して欲しいか計画もなかった。
ただ「八女の町は素敵なところだ。そこにインフルエンサーが来れば素敵に切り取ってInstagramに上げてくれるだろう。そうなれば観光客も増え、財政難だった八女にも転機が訪れる」と思っていたのだ。
そこでインフルエンサーの○○さんのInstagramアカウントを検索して覗いてみた。投稿一覧の中には確かに見慣れた八女の景色が。
八女の写真をタッチしてみて「いいね」の数を見てみる。

いいね!の数、40。

マジっすか。
インフルエンサーなのに40なんすか。
あのSONY α7に20万円のジンバルつけて撮った写真がいいね40なんすか。
それはインフルエンサーに力がないのか八女に魅力がないのかどっちなのさ。

また、別の日にこんなこともあった。
これまた県の人間が連れてきたよくわからない人。
中国の実業家らしい。
日本の文化に興味があって、歴史ある八女に視察に来ているのだとか。
「ワークショップの参加費は無料で」
いつものようにそう言われる。
まるで常連だからラーメン替え玉無料にしといて、みたいに気軽に言うが、ワークショップをするためには人件費材料費もかかっているのだ。
中国の実業家はジャケットを着て颯爽と歩いていた。
「はー、やっぱおしゃれかねー」
「高級車に乗ってるんでしょうね」
などと呟く八女人達
恥ずかしい。恥ずかしすぎるよ、マジで。
一通り八女の視察を終えた中国の実業家はこんなことを言った。
「来月から、毎月200人ずつ観光客を連れてきますね」
これに浮かれに浮かれまくった八女人、と福岡県庁。
「毎月200人かー!200人回すキャパあるかなーーー」
「もうバスがひっきりなしで来ますね」
「爆買いの人達だから、八女の伝統工芸品もたくさん作らないと!!」

中国の実業家がそんな約束をしたのが2018年の年末。
この記事を書いているのが2019年の年末。
未だ八女は観光客が増えていない。

最近僕はNetflixでFYREというドキュメンタリー映画を見た。
インフルエンサーに踊らされる世間。
八女の場合はFYREと違って結局人すら来なかったが、引っ掻き回されたという点では似ているところも多い。
観光課の人間などは自分の任期中にそれっぽい結果を残さないといけないからインフルエンサーとかブロガーとかインスタグラマーとかその時の流行をちょちょいと連れてくることが多い。
引っ掻き回したのは確かに外部のインフルエンサーだが、地方を潰すサイクルを生み出しているのはその地方の人間なのだ。

K.Takeshita

福岡の奇祭!? 筑後市で全身に煤を塗って練り歩く奇妙なお祭りがあった!!

奇祭という言葉をご存知だろうか。
字のごとく奇妙なお祭り、奇っ怪なお祭り、珍奇なお祭り、まぁようは独特な風習のお祭りということである。

有名どころだと巨大な男根を担ぐ愛知県の田縣神社豊年祭がある。
世界に目を向けるとトマトを投げ合うスペインのトマティーナ、カラフルに染まるインドのホーリー祭などが見つかる。

奇祭…なんだか面白い。間近で見てみたい。
だけど奇祭なんてそれはナショナルジオグラフィックとかBBCで見るお話。
私になんて関係ないのね……。

なんて思っていたが、実はすぐ近くにあった。

場所は福岡県の南部、久留米市のすぐ隣の筑後市という町だ。
この町では毎年8月の盂蘭盆の時期になると久富観音堂盆綱曳という祭りが行われる。

この祭りの主役は地元の子どもたち。
子どもたちがなんと全身に真っ黒の煤を塗るのだ。

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そして藁で編んだ角と腰蓑をつけて、重さ約400kgの巨大な綱を曳き回して町中を練り歩く。

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この祭りは江戸時代初期に始まったとされる施餓鬼行事。
不幸にして成仏できずに亡くなった亡者の例を供養するために始まった。
苦しむ亡者を盆の一日だけ鬼が綱で引き上げて、極楽浄土で食べ物を与えて供養する意味が込められている。
全身真っ黒で角を生やした子どもたちの姿は、亡者を引き上げたというわけだ。
また、1641年とその翌年の大凶作によって飢えや病気による死者が続出。その際多くの子どもたちがなくなったことから、その子たちの霊を鎮めようと、こうして祭りでは子どもたちが主役となって綱を曳くことになったと言われている。

物見遊山として見に行っただけのつもりだったが、まさかこんなに深い歴史と意味のある祭りだったとは。
大凶作による飢饉は起きなくなったが、子どもをとりまく社会問題が改善されない現代日本で、今後このお祭りはどんな意味を持っていくんだろう。

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K.Takeshita

久留米のリオのカーニバル!? 久留米そろばん踊りと久留米絣の意外な関係!?

時に、西暦2019年8月4日。
私は今年も久留米そろばん総踊りに参加してきた。

参加する前、私は友人にこう言った。
「今年も久留米そろばん踊りするから、よかったら見に来てよ」
すると、友人はこう答えた。
「そろばん踊りってなに?」
マジか。
同じ筑後地域に住んでいながら知られていないものなのか。

久留米そろばん総踊りとは毎年8月上旬、『水の祭典久留米まつり』の中で行われる催し物だ。
久留米の道路1キロメートルほどを歩行者天国にし、地元企業や団体を中心に県内外から集まった参加者が隊列を組んでそろばん踊りを踊りながら歩く一大イベントである。
踊り方や掛け声に基本の型はあれど、各々所属する企業や団体で微妙にアレンジされているのが面白い。

そろばん総踊りは不思議なお祭りだ。
普通祭りは神様を祀るためにある。
神社の神様を祀るため、土地の神様を祀るために行われた祀りが祭りに変わったのが現代のお祭りである。

久留米そろばん総踊りはちょっと違う。
久留米そろばん総踊りで皆が踊る久留米そろばん踊りという唄は元々は『久留米機織り唄』と呼ばれる新民謡であった。
久留米絣を織る機械の音とそろばんのカチャカチャっという音が似ていることから、唄に合わせてそろばんを振ったことが始まりだと言われている。
そう聞くと、映画『もののけ姫』のたたらのシーンを思い出す。劇中女性たちが唄に合わせてたたらを踏む。
久留米機織り唄も作業のリズムをとるための作業唄として唄われていたのだろうか。
いや、どうやら違うらしい。
久留米機織り唄は作業唄ではなく、明治時代頃から座敷で唄われていたものだとか。
花街や料亭などの酒宴で芸者が唄い、客としてやってきていた商人たちが持っていたそろばんを(久留米絣の機織りの音に見立てて)カチャカチャ振ったのがそろばん踊りの発祥だと言われている。
この唄に伴奏のそろばんを持った踊りがつくのは1972年、まさに第一回「水の祭典久留米まつり」がスタートしたころだったのだ。

そろばん踊りの説明を受けた友人はこう言った。
「阿波おどりみたいなもん?」
うーん。ちょっと違う。
「じゃあ、リオのカーニバルみたいなもん?」
言い得て妙だった。
それぞれの団体が踊りをアレンジして、練習して、本番で踊る。
祭りでは審査もあってコンテンストの結果発表もある。
もちろん本場のリオのカーニバルほど必死なものではないが、たしかに、近いものはあるかもしれない。

K.Takeshita

筑後市の謎ポエムが早朝のスタバで読むのに丁度いい件

インスタグラムというツールを私が最初に触ったのは9年ぐらい前だったろうか。
ツールと表現したが、そう、インスタグラムは最初はツールだった。
なんか写真をレトロ風(しかも完成度が高い)に加工してくれるアプリがあるでー(まあ、登録が必要だけどな)という扱いだった。
それが今はインスタグラムはSNSだ。
若い子が使っていたかと思えばおっさんやおばさんも使うようになり、企業や団体も使うようになった。
インスタグラムが普及し始めた当初、ナショナルジオグラフィックで「インスタグラムは写真なのか?」という議論を扱っていたが、それはもうはるか昔の話で、インスタグラムが写真かどうか本気で議論する人間は今はいない時代になってしまった。

福岡県南部に位置する筑後市もインスタグラムアカウントを持っている。
アカウント名は「恋のくに筑後市インスタっ隊」である。
もう田舎臭いネーミングセンスが漂っている。
地方の草野球チームの応援団みたいなネーミングである。
隊員は試合の後、缶詰居酒屋で打ち上げしてそうな雰囲気だ。

私は付き合いもありこのアカウントをフォローしてみた。
どこかのタイミングでフォロー外してもいいかもと思っていたが、このアカウントがなかなかおもしろい投稿をするのだ。
よくある広告会社を真似したけど足元にも及んでない地方の投稿とは一線を画す。
どこどこで花が咲いたとかどこどこの店の食べ物が美味しいとかそういう地元目線のコアな情報が投稿される。
この筑後市のアカウント、投稿される情報が魅力的なのは当たり前として、さらに魅力的な、いや魅力がある。
それが、謎ポエムである!!

例えば

まだ新し目のカフェで一息。向かいに座る相手がいたらな。

とか

都会っぽさもあれば、田舎っぽさもある筑後市。フワフワ、あなたのもとへ飛んでいきたい♪

とかである。
まるで高校生活にうまく溶け込めない文学系の美少女とか世界の命運を一人で背負うことになった世界系ラノベのヒロインが書いたような文章だ。
これからは早朝のスタバで村上春樹を読むのはダサい。
読むべきはこの「恋のくに筑後市インスタっ隊」のポエムである。

昨日のお昼はあさひや。
*
私は単品で、彼はセット。
*
餃子いいなぁっておねだり
*
一つもらえた(*^^*)
*
*
*
*

なんてことはないラーメン屋での一場面。
「私は単品で、彼はセット。」の下りがなにか意味深げに聞こえてしまう。

筑後ビレッジに週2回くらい来てくれる可愛い移動カフェ『ハナウタカフェ』。
「寒いね」って2人で言いながら、あったかコーヒー飲んじゃお♪

なんだこの「寒いね」って言い合える相手とハナウタカフェに行きたくなる感じはっ!
ここで登場するハナウタカフェとは筑後地域を中心にコーヒーやソーダなどを販売している移動式のカフェだ。

バレンタイン前にひいたピンク色の恋みくじは大吉♪
背中を押されて告白した昨日、結果はヒミツね!(*´艸`)

ちょいちょいちょーい!!
なーに一人でうるおい手に入れちゃってんのよ―!!と茶化したくなる投稿だ。
見てるこっちまで乙女になってくる不思議文章。

「今日はジャングルに行こうよ」
「いいね♪俺、黒のドラキュラにしようかな」
そんな予定を話して朝からウキウキ。

ここでジャングルと黒のドラキュラが登場。
まるで異世界転生もののような単語の羅列だが、これは筑後市にあるジャングルスープカレー屋の黒のドラキュラというメニューについて語っている。
このジャングルスープカレーは堀江貴文氏のホリエモン万博にも出店した。

雨の音を
聞きながら
紅茶を
八女茶を
鉱泉焼で
いただきながら
ゆっくりとした
幸せな
時間を
楽しみながら
過ごせる場所。

まるで雨音のような文章。
「紅茶を 八女茶を」とお茶を二つ登場させることで登場人物が二人であることを匂わす巧みな技術。

『恋してる?』マスターが聞いた。
『……してますよっ』
『じゃあ、君にはこのキッシュを。』
『…恋が叶いそうですね』

くぅーーーーーーーーーう!
こんなマスターほんとに世の中にいるのかい。
思わず川平慈英になってしまった。

嫌いになろうとした。
失敗した。
やっぱり大好きだった。
このままで
良いですか。

これはピザ屋を紹介する投稿。
もはやピザ屋関係ない。
ピザ出てこない。

くーっ!
無性にラーメンが食べたいよぅ!
そんな時、
はいはい、白龍軒ね
って分かってくれる、
付き合ってくれる、
あなたで、
良かった。

くぅーーーーーーーーーう!(本日2回目)
いやいや、やっぱりこのインスタアカウント技術が巧い。
なんせ平仮名が多い文章の中「白龍軒」という漢字を引き立たせることに成功している。
ちなみにこういったポエムは早朝の5時に投稿されている。
あさっぱらの5時にこんな文章を投稿するのは「耳をすませば」の雫のような頑張り屋さんに違いないっっ!!

出逢って
数年経つけど
まだ
あなたの笑顔に見惚れてしまうし
まだ
あなたの声にドキドキしてしまうのよ。
また
いつものウッディで
ご飯を食べながら。

なんだこの卒業式間近の少女の心みたいな文章は。
しかもウッディの破壊力やばい。
ウッディってトイ・ストーリーですか!?
それともひぐらしのなく頃にですか!!??
それとも彼氏の名前がウッディさんなんですかーーーー!!!???
※筑後市のカフェレストランの名前です。

ありがとう
さよなら。
遠くに旅立っても、
『さざなみ』で
みんなでモツ鍋食べた
あの時間のことは
きっと忘れない。

エヴァンゲリオンの最終回を連想させる始まり。
「旅立ち」と「さざなみ」という単語からはリチャード・カーティス監督の「アバウト・タイム」という映画で主人公が父と一緒に浜辺を歩いているシーンが自然と浮かぶ。
「あのイーハトーヴォのすきとおった風…」のような髪と頬を優しく撫でるこの文章にいきなり「モツ鍋」という単語が登場する!
この破壊力はヤバい!!
美少女アイドル声優が「好きな食べ物はモツ鍋です」と言うくらいインパクトがある。
だけど、なに、このモツ鍋が食べたくなる投稿は(トクン)

とまあこんな感じでポエムが投稿されているのだ。
調べたところこのアカウントが始まってしばらくはポエムが投稿されていなかった。
どうやら2017年4月頃からポエムが始まっている。
ということは、2017年4月から筑後市観光協会に新海誠的美少女が就職したのだと思われる。
そんな筑後市観光協会は筑後市の観光のことで困ったら親身に応えてくれる団体なので、ぜひ困ったことがあれば下記の公式ホームページよりお問合せ願いたい。

一般社団法人筑後市観光協会
恋のくに筑後市インスタっ隊( @koinokuni_chikugo_instattai )

K.Takeshita

廃線探訪:皆知ってるけど見落とされがちな矢部線史跡-八女伝統工芸館-

皆さんは八女伝統工芸館をご存知だろうか?
福岡県は八女市本町にある八女の伝統工芸品を展示、紹介するための箱物である。
一応観光地なのだが、店内はしょぼく特に広報に費用をかけているわけではないので観光客はおろか地元の人もあまり訪れない。
駐車場だけはやたらでっかいので、周囲の人間からは「あ、なんか広くて便利な駐車場がある!」程度の扱いだ。

実はこの八女伝統工芸館には矢部線の鉄道史跡がごまんと遺されている。
なので、今日はそれら鉄道史跡について紹介していこうと思う。

まずは八女伝統工芸館の外から見ていこう。
八女伝統工芸館の北西に位置する駐車場の側溝に注目したい。

©KYism

工のマークがついた杭が遺っている!!
このブログの読者ならもうおわかりだろう。
工のマークがついている杭、それはつまり国鉄の境界杭だ!!
矢部線の路線が走っていた場所で国鉄の境界杭を見つけたら、それは100%矢部線の鉄道史跡だと言っていい。

駐車場の側溝沿いを西に進むと伝統工芸館が管理している花壇がある。
ここでは和紙の原料になる楮が植えられているのだが、なんと花壇の草むらの中にも…、

©KYism

境界杭が遺されていたっ!!!

矢部線探訪をしている人のブログやウェブサイトを片っ端から見ているのだが、この駐車場の境界杭に気づいている人は一人もいない
たしかに駐車場の側溝なんて普通は覗かないし、花壇の草むらなんて普通は入らないだろうから気づかないのは当然だろう。
だが、決して覗いて怒られる場所ではないので、これから矢部線探訪をしようと思っている人はぜひチェックしてもらいたい。
国鉄の境界杭は、廃線マニアなら垂涎モノのはずだ。

さて、八女伝統工芸館の中に入ろう。
入り口から入って左手、トイレのすぐ近くに矢部線の資料が展示されている。

©KYism

矢部線の車両の写真や運賃表が壁に展示されている。
運賃表に傷や凹みが残っているのが微笑ましい。

©KYism

時刻表まで遺っている。
時刻表に書かれている「当駅」とは「筑後福島駅」のこと。
八女伝統工芸館と隣の鉄道記念公園はかつて国鉄矢部線「筑後福島駅」が建っていた場所なのだ。
筑後福島駅は2面3線の駅構造で、単式ホームと島式ホームがそれぞれ1つずつあった。
八女市の代表的な駅だけあって規模は比較的大きく、よく通学のために高校生が利用していたという。
町でちょちょっとインタビューをすれば、50代、60代の人から「お母さんと電車に乗って八女に遊びに来ていた」と思い出を聞くことができる。
今では信じられないが、八女市には昔百貨店の岩田屋があった。
矢部線に乗って岩田屋に遊びに来ていた記憶を有している人は少なからずいるようである。
当時子どもだった人たちも今では立派なおじさん、おばさん。下手すりゃ孫がいるかもしれない。
鉄道の思い出はなかなか感慨深いものだ。

八女伝統工芸館内を西に進むと籠を編んでいるおじさんが見えてくる。
このおじさんの向こう側、民俗資料館と手漉き和紙資料館の間の空間になんと矢部線の線路が遺されている

©KYism

ほんの少し錆びつきつつもきれいな形で遺っている線路。
触るもよし舐めるもよしな距離感なのだが、なぜか来客者のほとんどがこの線路に気づかない。
あまりにも平然と遺されているからだろうか。お客さんは廃線や矢部線に興味がないのだろうか。
線路の断面図も見れて素敵な場所なのに、もったいない。

民俗資料館や手漉き和紙資料館の周りに他に鉄道史跡がないか巡ってみたが、それらしい物は見つからなかった。
どうやら工事の際にきれいさっぱり取り除いたようだ。

八女伝統工芸館の東側に行くと業務用のゴミ捨て場がある。
このゴミ捨て場の敷地内にも矢部線の線路が遺されている

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こちらはレールとマクラギと道床がしっかり遺されている。
マクラギが少し欠けているのもテンションがあがる。
惜しいのはなぜ線路の横にゴミ捨て場を作ってしまったのか。
八女市は本気で八女の歴史を大切にするつもりがあるのか。
八女の伝統を継承する施設で、矢部線の隣にゴミ捨て場を設置するなんてなんたる皮肉。片腹大激痛である。

なんもかんも政治が悪い八女伝統工芸館を後にして鉄道記念公園に向かってみよう。
鉄道記念公園の脇には藤棚がずらーっと並んでいる。

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この藤棚、実は矢部線のレールで造られている

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見上げれば見事なまでの建築物。
ずいぶん粋なことをしたもんだと感心する。
だが地元の人はこの藤棚が矢部線のレールで造られている事実を知らない。
どうやら八女の有象無象は自分の土地の歴史に無関心なようである。

藤棚を歩き、鉄道記念公園にたどり着くと看板が見えてくる。

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筑後福島駅の歴史が書かれた看板。ディーゼルカーがいつ登場したのかまで書かれた丁寧っぷり。
蒸気機関車の写真まで遺されている。
長年日光にさらされて看板の写真が色あせているが、今後これは修復されるのだろうか。
完全に色が抜けて写真が消えてしまったら、いよいよ矢部線の資料がなくなってしまうだろう。

鉄道記念公園には踏切と線路と駅舎が遺されている。

©KYism
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これらはモニュメントであり、当時のまま遺されているわけではないようだ。
駅舎も外観が新しく、中はただの倉庫になっている。
こんな中途半端な倉庫を作るくらいなら、駅舎をそのまま残してくれたら良かったのだが…。
ちなみに2003年2005年あたりだと公園内に駅のホームが遺っていたようである。
2019年現在ホームは遺っていない。
ぜひホームにお目にかかりたかった。
というか、福岡県志免町の志免鉄道記念公園にはホームや線路を活かした遊具やベンチがあるのだから、筑後福島駅も志免鉄道記念公園のような場所にすればよかったのに。

鉄道記念公園は幼稚園や小学校の遠足コースに含まれており、休日、平日問わず子どもたちで賑わっている。
後何十年もすれば矢部線のことを知らない世代だらけになってしまう。
その時この公園はなんと呼ばれるのだろう。もしかしたら鉄道記念公園という名前すら忘却されてしまうのかもしれない。

 

K.Takeshita

創業51年のケーキ屋さん御座船本舗必勝堂が閉店!?今だからこそ必勝堂のたぬきケーキについて語ろうと思う

福岡県は久留米市十二軒屋の交差点にあるケーキ屋さん、必勝堂御座船本舗十二軒屋店。
このお店が今年の4月末日を持って閉店した。

私がこのお店に行ったのは昨年のこと。
十二軒屋という交差点のただ中にあるお店なので目につくことは多かった。
ただ駐車場が不便なのでなかなかお店の中に入ることはなかった。
それが、ある時、お店の外からそっと中を覗いた時にたぬきケーキがあるのを見つけた。

たぬきケーキ。

この存在を知らない人は多いだろう。
私も東京でこの存在を知った。

それは東京の文学フリマで「まつもとよしふみ氏」が発行しているzine「たぬきケーキめぐり」に出会ったときだ。
zineの作者まつもとよしふみ氏は「たぬきケーキのあるとこめぐり」というブログを連載している。
そこには全国のたぬきケーキの情報が載っている。
文学フリマで販売されていた「たぬきケーキめぐり」というzineは、いわばブログのペーパー版である。

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たぬきケーキは、たぬきを模したケーキのことで、多くはバタークリームとスポンジとチョコレートでできている。たぬきケーキの発祥は、詳しくわかっていないが、昭和30年代辺りに日本のどこかで生まれたらしい。高度経済成長期、たぬきケーキは町のケーキ屋さんからケーキ屋さんに広まり、愛らしい見た目のたぬきケーキは町のケーキ屋のアイドル的存在になった。
時代が平成に変わったあたりからたぬきケーキを取り巻く状況が変わった。町のケーキ屋さんの代わりにコンビニが台頭し、スイーツが多様化した。コンビニでは流行りのスイーツが気軽に手に入るようになり、町のケーキ屋さんの需要が減り、町のケーキ屋さんのショーケースから時代遅れのお菓子は追い出された。たぬきケーキはこうした時代の変化とともに全国から姿を消していった。
※たぬきケーキの説明はまつもとよしふみ氏のzine「たぬきケーキめぐり」を参考にしています。

とにかく私はこの「たぬきケーキめぐり」という書物にハマったのである。
なんせ文章からにじみ出るたぬきケーキに対する興奮、写真から伝わるたぬきケーキに対する愛が半端ない。

食べてみたい。

私はサラリーマン甘太郎のような気分でたぬきケーキを一口食べてみたいと思った。

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御座船本舗必勝堂に鎮座していたたぬきケーキは「たぬきちゃん」という名前で売られていた。
もはや鼻なのか口なのかわからない、たぬきちゃんの顔の白い部分。ドラえもんの顔の髭が生えている部分みたいだ。
同じく鼻なのか口なのか判別つかないくりんっ!と尖った突起物も愛らしい。
たぬきちゃんの耳を象っているチョコレートの部分。チョコレートの円柱は、もはや耳ではなく角だ。
この角のせいでたぬきちゃんは狸ではなく神聖な生き物のようにも見える。
おそらくたぬきちゃんを擬人化した際には「ひぐらしのなく頃に」の羽入ちゃんのようになるはずだ。
そして注目するべきはたぬきちゃんの目だ!
今日日黒いきれいな光沢のチョコレートはいくらでもあるはずなのに、おばけのホーリーの体色のような非光沢のチョコレート。
人の作りしものであることを証明するかのような焦点のあってない瞳。

素晴らしい。
可愛い。
この素晴らしいたぬきちゃんに祝福を!

感動するべきは、食べた時の食感だ。
舌の上に広がるしっとりしたケーキの食感。
口の中に広がり鼻道にまで立ち上るバターの香り。
そして、この地球上におそらく嫌いな人はあまりいないであろうチョコレートの甘み。

私が子どもの頃、近所にパン屋があった。
そこのパン屋ではトトロとかアンパンマンとかピカチュウとか人気のキャラを模した菓子パンが売っていたが、正直言ってあまり美味しくなかった。
食感はぱさぱさで、油はべちょべちょだった。
まだ今ほどパン屋ブームとかカフェブームがなかった頃の話だ。
キャラクターを模した食べ物といえば、そういうイメージしかなかったから、たぬきちゃんを食べた時の感動が人一倍大きかったのだ。

ところで、私がこのたぬきケーキいや、たぬきちゃんを買った時にお店の女将さんから「もうすぐお店を閉めるのよ」と聞いていた。
まあ、理由はよくある後継者がいないからだ。
こんなご時世にお菓子屋を継ぐのは大変なことだろう。
仕方がない。
創業51年の久留米の銘菓店は平成中に幕を閉じ、時代は令和に移り変わった。
時代と共にまた一つたぬきケーキが失われた。
これからたぬきケーキはどうなっていくのだろう。

参考サイト
たぬきケーキのあるとこめぐり / 全国たぬきケーキ生息マップ

 

K.Takeshita

廃線探訪:チャリラーの僕が矢部線跡をサイクリングしてみたよ(羽犬塚駅〜八女総合体育館)

今回は自転車に乗って矢部線跡を巡っていきたいと思う。
ちなみにスポーツバイクは嫌われるおっさんの趣味ベスト3に入ってるのだとか。
それに加えて廃線趣味なのだから、このウェブサイトはモテない方向に猪突猛進しているとしか思えない。

それはさておき、このサイクリング、スタート地点は福岡県筑後市にある羽犬塚駅から始まる。

この羽犬塚駅、かつては国鉄矢部線の駅だった。
そのため羽犬塚駅には現在も旧羽犬塚駅跡が残っているのだ。

それは改札口入ってすぐの駅のホーム。
このホームを筑後船小屋駅方面にずっと歩いていくとフェンスにたどり着く。

このフェンスの奥に見えるホームが旧羽犬塚駅のホーム跡だ。

こんなフェンス簡単に乗り越えることができるが、一応僕も三十路。
勝手なことしては駅員さんに怒られそうなので、フェンス越しにホームを眺めるだけにする。

 

改札口から駅を出て鹿児島本線沿いに筑後船小屋方面に進んでいくと、橋の跡が見れる。

花田橋のとなりにひっそりと残る橋台。ここに昔矢部線の線路が走っていた。
2003年の段階ではこの花田橋近辺には矢部線の線路が走っていた跡がくっきりと残っていたようだ。
具体的に説明すると、草むらの中に線路跡が白くくっきりと残っていた
2019年現在、線路跡を確認することはできなくなっている。残念。

旧ホーム横のアスファルト部分が、矢部線の線路が走っていた所。現在ここは立入禁止。この空間は今後どのように活用するのだろう。

 

さらに鹿児島本線沿いに南下していく。
すると、和泉踏切が見えてくる。

この踏切のアスファルト部分には亀裂が入っている。
矢部線のレールを剥がさずにアスファルトで埋めたと思われる。
このアスファルトを剥がせば中から線路が出てくるのだろうか。
だとしたら、剥がしてみたい。
まさに廃線野郎たちのためのタイムカプセル。

和泉踏切の足元にも注意されたし。

しれっと境界杭が残されている。
この「工」と書かれた境界杭は旧国鉄の境界杭なのである。
どうやら殖産興業を推進するために設置された工部省の「工」を意味するマークのようだ。
工部省は造船、鉱山、製鉄、そして鉄道などの事業を管轄していた。
なぜ境界杭に「工」というマークが採用されたかというと、工部省の「工」と鉄道のレールの断面図が「工」みたいな形をしているから。
なかなか明治政府は粋なことを考える。

JRになってからの境界杭はこのJRというマークが入っている。旧国鉄を追っている方々は区別されたし。

 

さらに南下すると道がカーブを描き始める。

このカーブを進んだところに桜の木がある。
この桜の木の根元に側溝があり、その側溝にはなんと…、

「工」のマークの境界杭が!
こんなところにも矢部線の史跡があった。

 

道沿いにひたすらペダルを漕ぐ。
畑の中をのびる弧を描いた道。

この道が矢部線跡。
道の脇の草むらを見ると…、

「工」のマークの境界杭が!!

矢部線に興味を持たなければ決して見向きもしなかっただろうコンクリートの小さな鉄道史跡。
畑を潰して住宅を建ててる土地がちらほら見られたが、これらの境界杭もいつか撤去される日が来るのだろうか。
そう思うと淋しい、惜しい。
ちなみにこの辺りの土地の衛星写真をGoogle Mapとか地理院地図で見ると畑の中をすらっと曲線を描いた道(矢部線跡)が走っているのを見ることができる。
いかにも昔線路が走ってましたよーと言わんばかりのくっきりした曲線の道路は画的な気持ちよさがある。
廃線マニアはぜひ閲覧されたし。

ペダルを漕いで道なりに進む。

野町北の信号を通り過ぎ、さらに道なりに進む。
この信号の先が花宗駅跡だ(今はただの道路になっている)。
花宗駅は一面一線の単式ホームで、駅舎もない無人駅だった。

 

ここからさらに道沿いに進む。

八女インター南の信号を通り過ぎ、さらに道なりに。

すると九州自動車道(鵜の池橋)にたどり着く。

この橋に関してはfukupediaというサイトで面白い考察をしている。
橋についている黒い汚れは、矢部線のディーゼル車の排煙による煤ではないかという考察。
かなり面白い着眼点だと思った。
ただ、僕がサイクリングしたこの日は工事中で黒い汚れを確認できず。

 

さらに八女方面に進むと鵜池団地という市営の団地が見えてくる。
この辺りがかつて鵜池駅が建っていた場所。
単式ホーム一面一線、矢部線開通とともに開業した駅で開業当初は木造の駅舎があったが、1962年に駅舎は撤去され無人駅となった。開業当初は開業記念としてホームに桜の木が植樹されたらしい。

現在県道96号から鵜池団地に入るための道路は、かつて鵜池駅に向かうための道路だった。

 

鵜池団地のすぐ隣にはレンガ造りの建物がある。

これは、農業用倉庫(現在の使用状況は不明)。
建物の趣きはかなり好み。

 

道沿いに自転車を進めると住宅街が見えてくる。
JAふくおか八女の看板手前のこの辺り。

この辺りに蒲原駅があったらしい。
駅構造は単式ホーム一面一線。屋根とベンチがあるだけの小さな駅だった。
道路脇などを色々観察したが、駅跡らしき痕跡はどこにもない。
きれいさっぱり史跡が取り除かれている。

蒲原駅跡を通り過ぎると八女伝統工芸館と八女福島のトンネル藤が見えてくる。

八女伝統工芸館と鉄道記念公園は矢部線マニアなら絶対訪れるべき場所。
矢部線を扱ったサイトなら必ず取り上げられる場所だ。
なぜならこの場所はかつて筑後福島駅だった場所で、現在も鉄道史跡がしっかりと遺されているから。
だが、この場所についてテキストを書き始めたらそれこそ長文駄文になってしまうので、また別の記事で取り上げることにする。

八女伝統工芸館正面出入口、ドラッグストアのすぐ隣のアパートには思わぬ鉄道史跡が残っている。

『駅前アパート 管理 立花支所』と書かれたものすごく錆びついた看板。
駅前、とはもちろん筑後福島駅のことだ。

 

八女伝統工芸館を通り過ぎて、さらに黒木方面へ進む。
すると八女総合体育館へたどり着く。

八女総合体育館の裏手の道が旧矢部線跡。
この道路の脇の畑に注目すると…、

おなじみ「工」のマークの境界杭がある!!
もう「工」のマークの境界杭を見ると落ち着くようになってしまった。

国道3号線の手前、八島鉄工所の前に今古賀駅があった。
国道の真下をディーゼル車が通るってどんな感じだったんだろうか。
もしかしてSLが通るときもあったんだろうか。
その時の風景は、もう見ることができないのがとても残念。

 

羽犬塚駅から八女総合体育館までの走行時間は約2時間弱。
道中色々探索、撮影しながらのライドだったのでかなり時間がかかってしまった。
そこまで探索しないのなら走行時間は1時間弱だと思われる。

今回のサイクリングはここで終了。
続きはまた今度。

※以下、参考にしたサイト
【八女市&筑後市の旅】旧国鉄矢部線を辿る | fukupedia
廃線探索 矢部線 | 歩鉄の達人
矢部線廃線跡調査 | 失われた鉄路を求めて
国鉄の駅 in 九州 | モノフォトショップ添田カメラ

K.Takeshita