歴史探訪:堺屋(旧木下家住宅)という文化財、乃木希典将軍の印鑑紛失事件とは

重要伝統的建造物群保存地区の八女の白壁通りには古い建物が多く立ち並ぶ。文化財指定されているものも多いが、その中でも際立った存在なのが堺屋(旧木下家住宅)だろう。江戸時代からの酒造業を営んでいた一族の邸宅であり、建物は贅沢の限りを尽くした素晴らしい建物だ。

©KYism

そんな堺屋の離れ屋敷のつくりは豪華絢爛だ。屋久杉の一枚板の欄間、黒柿の床柱、紫檀の床框、さらには欄間、釘隠し、天井などどこを見ても当時の繁栄を感じさせる。また採光用の彫りガラス、陶器のトイレなどを含め、その時代時代の最先端と、伝統的技法、西洋的技法などが組み合わされ、建築物として見ごたえがある。

しかし今現在当時の姿を残しているのは来賓客を宿泊させたりしていた離れ座敷の部分だけだ。八女市に寄贈され、その後改築されこの部分だけが残されたのだ。堺屋のある東京町(ひがしきょうまち)の人たちは、「なぜ改築してしまったのか・・・。」と今になって嘆くが後の祭りだ。実は明治時代に建てられた一号倉庫、三号倉庫も八女市の文化財ではあるが、こちらは見どころもなく、ほとんど訪れる人もなく、ほとんどの人は離れ座敷だけを見て帰ってしまう。あまりにも説明も何もなくただ立っている一号倉庫、三号倉庫はもはやただの物置にしか見えない。

©KYism

そんな離れ屋敷には面白い逸話がある。明治19年4月15日と16日に、日露戦争の英雄でもある乃木希典(当時は熊本第六師団第十一旅団長)はこの堺屋に宿泊したのだ。乃木希典と言ってもピンとこない人が多いかもしれないが、最近で言えば乃木坂46の乃木坂は彼に所縁があるといえばわかるかもしれない。

乃木希典はこの堺屋宿泊時に印鑑を紛失してしまったのだ。そのことは本人の日記にも残されており、「印鑑紛失」と記されている。そして時は立ち、昭和14年になり、木下家が先代の遺品を整理していた際に、「乃木大将の印、明治17,8年ころの宿泊」という書付と共に印鑑が出てきたのだ。そしてその印鑑はそのまま下関の乃木神社に寄贈されたのだ。乃木の殉死後27年たって、その印鑑は再び表舞台に出てきたのだ。

©KYism

大事な印鑑をなくした乃木希典は、その後新たな印鑑を発注したが、気に入らず作り直しを命じている。今のようにシャチハタや出来合いの印鑑がなかった時代、全ては手彫りの一品物、お気に入りに変わるものはそう簡単には作ることができないのだ。ましてやそれが自分の名前を印すものであれば、なおさらのことだろう。

ここでは訪れるものが、乃木将軍が泊まった頃よりも静かな時間を満喫することができる。皮肉なことではあるが、当時に比べ賑わいがを失われたことで、ゆったりと流れる時間と歴史満喫することができる。ただ本来開館時間は5時までなのだが、あまりにも人が来ないこと、地元の方が管理している為か、人がいても夕方4時過ぎには雨戸を閉めたりして見れなくなってしまうのは残念だ。一応声掛けはしてくれるのだが、ぎりぎりの時間帯に見に来た人はおそらく中を見ることはできないだろう。観光地としては致命的な田舎あるあるだ。

©KYism

また堺屋の管理棟でもあるのだが、白壁通りに面した場所はもともとカフェがあり、それが蕎麦屋になったのだが、もう長らく使われていない。最高のロケーションでもあり、ここを地元の工芸品の展示などに使えれば人の導線ができることもあり、できれば使わせてもらえないだろうかという相談を何度も持ち掛けているのだが、「使う予定があるから」と断られてからはや2年以上がたっている。宝の持ち腐れ、使えるツールの未使用は単なる無駄でしかない。

素晴らしい文化財、見ごたえのある物件だが有効活用できているとは言い難い。しかしそこには歴史があり、一見の価値がある。

H.Moulinette

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA