京都、静岡、狭山、とお茶所やお茶所のそばで育った筆者のようなお茶好きにとっては八女はお茶の産地という認識はあった。しかし東京にいても八女茶という存在は「一つの産地」に過ぎず、そこで作られているお茶が日本一という認識はなかった。今八女に来て、自らも茶畑を預かり茶を育て、改めてその良さを認識しているが、そこで感じたのは地元が大きな勘違いをし続けてきたということだ。
玉露日本一を取り続ける八女だが、その結果が認知度に直結しているという壮大な勘違いが故に、不十分なPRに留まってきた。その為関東のお茶関係者、茶道関係者の間でなんとか知られている程度の存在であり、一般人に至ってはお茶を嗜好する人の間でも2~3割の認知度という低さだ。何故にそこまで低いのか、それはただ一言「PRが下手くそ」というに限りだろう。何とか国内外でその知名度向上と流通を目指しいろいろと行ってはいるが、そのほとんどが打ち上げ花火、結果につながらない見当はずれなものが極めて多いのだ。海外の茶商やティーサロンなどに取材したところ、例えば知覧茶やかごしま茶は海外でもその名を轟かせており、同じ九州の産地にもかかわらず大きく水をあけられている。グレードで言えば八女は高級茶の玉露に対して一般的な茶葉の知覧・かごしまに完璧なまでに負けているのだ。これは宝の持ち腐れと言わずして他に何と言えるだろう。
それを今頃になって察したのか、福岡県は、何を思ったのか福岡県下で作られたお茶をすべて「八女茶」ブランドで統一するという見当違いのプロモーションを始めている。すでに八女茶の中でも星野地域で作られる星野茶は独自に展開しており、確実に知名度を上げシェアを伸ばしている。さらには笠原も笠原茶として自分たちの地域名のブランド化を目指している。なのになぜに今頃福岡県下生産茶全てを八女茶という解釈にしようとするのだろう。
よく八女茶のプロモーションを駅や百貨店、イベントなどで行っているのを見聞きするが、どの場所で行おうと、ほぼ100%の確率でPRをしている関係者は法被(はっぴ)を着ている。どこの産地でもやっているような、差別化の工夫もないありきたりな格好で、しかも紙コップで高級茶を飲ませるというパフォーマンスで、果たしてその高級茶の良さを理解してもらえるのだろうか?
例えば最高級のワインの代名詞、ロマネ・コンティを紙コップで出されても、その良さは感じられないだろう。そもそも「料理は器で食わせろ」という通り、人間は心理的に最初に視覚に入った印象が大きくものをいうのだ。ワイン同様にお茶の場合、風味や温度を考えたときに、適切な器があるわけで、玉露を紙コップで出すという愚行は、さながら乞食同様の格好でフォーマルなパーティーに出向くようなものなのだ。中身がよくとも、その格好からくる印象、ファーストインプレッションは最低となるのだ。
そんな貧困なイメージを見せられて、八女茶が「高級茶」という印象を一般の人が持つことができるだろうか?
一期一会を大切にし、おもてなしの心をもってお客様に接するのであれば、それに適した格好とやり方というものがあるだろう。例えばお茶のソムリエの制度があるのだから、ソムリエの格好と所作で、八女にゆかりのある「柿右衛門(現在までに15代続く陶芸の名門、酒井田柿右衛門)」の茶器でお茶を出すぐらいでようやくバランスが取れるというものだ。
しかしどうあれその品質は日本一というのは紛れもない事実、玉露では常に上位独占、煎茶でも常に上位に入っている。なのであれば国内での適切なPRと共に、目指すべきは目的意識をはっきりと絞ったPRによる「HIGH-END GREEN TEA」という地位だろう。
世界的に緑茶が注目を浴びている中で、そのトップを目指すような仕掛けをこれから行っていく必要があるだろう。海外に出すには農薬問題もあり容易ではないが、狙うべきは世界、是非とも「世界を制した八女茶」という称号を手にしてほしいと思う。
H.Moulinette
大戦前の好景気時に高級茶としてのブランド化が成功して今に至っていると思ってましたが、高級茶ではなく最高級茶だつたのですね。
筑後市の住人ですが、よそに行って自己紹介するときには「八女の人です」といったほうが通るので、八女は充分有名だと思ってました。
「高級」ではなく「最高級」という新しい切り口、地元にどっぷり浸かってる私にとって新鮮です。
八女はもったいない場所です。スター候補が2軍でくすぶっている状態で放置されています。最高級を狙える逸材は活用してなんぼですからね。ただ内側から声を上げにくいのも古い地域ならでは。なので客観的にいろいろと考察をし、これからも声をあげていきたいと思っています。